「それは、確か」
「ああ、マーガリンだ。朝ミカの奴が持っていてな。使えると思って持って来た」
そう、レミが手に持っていたのは朝ミカがパンに塗っていたマーガリンの箱だ。つまりイワンを攻撃したのはマーガリン。当然イワンは疑問に思う、当たり前だが通常のマーガリンといわれる食物にそんな力はない、レミの天使の能力が伝わっているのは間違いない。だが彼女の力は練り物と言われる魚肉を練って作られた食品を媒体とするはず、マーガリンはその限りではないはずだ。
「勘違いするなよ。私が戦闘に能力を使わないのは“アイツ”やお前がいたからさ。私が攻めにいく必要がなかったからだ」
上司であるレミが現場に出るときは必ず部下であるイワンか“彼女”のどちらかが同行していた。だからレミは積極的に闘いに参加する必要がなかったのだ。
「それに媒体についても勘違いをしているぞ。普段は固化した物の方が扱いやすいから使っているだけだ」
イワンの爪を切り裂き床へと落ちたマーガリンは再びレミの手元の箱へと戻って行く。その動きはまるで生物のよう、色も彼女の力が伝わっているせいだろう、通常のマーガリンよりも白く淡い光を放っているようにさえ見えた。
「お前の言う魚肉の練り物というのはあくまで私の扱える物の一つ。私の媒体はペーストの物。固化した物も含めてな。つまり流動性がある粘性物質も自由に操る事が出来るんだ」
練り物。それは曖昧な言葉だった。一般的にはイワンの言う様な魚肉製品を指すのだろうが、何もそれだけが練り物ではない。和菓子の羊羹や合成樹脂などを練り固めた物もそうよばれるし、祭礼で町を練り歩く行為も練り物と言われている。まあその行事は別としても、レミの媒体のなる物の範囲は広くレミでさえ全てを把握してはいない。だから彼女は初め述べた魚肉の練り製品と、こうしたペースト状の物を自分の媒体として認識しているのだ。
「ふむ」
箱から飛び出たまるで鞭のようなそれは再びイワンを襲う。しかし先程のような不意打ちでなければ避けるのはそこまで困難な事ではない。だが受け止める事は難しいだろう。レミの力が通っているそれはもはや鋭利な刃に等しい。下手に触れば小指の爪のように切り落とされるのは必然だろう。イワンが避けるしかない限り、こうして距離をとり攻め続ければ戦況はレミの方に傾いてきたようにも見える。しかし、不思議とイワンの心は先程よりも沸き立っていた。
「嬉しいよレミ、やはり君はいい。君は力も優秀だったようだ」
彼女の力が込められたペースト状のものを宙に舞わせるレミ、その姿はイワンから見れば白く輝く羽衣を纏う天女のようだった。
「そうか」
褒められようともレミは攻撃の手を休める事はしない。むしろ今の化物のようなイワンに言われても薄気味悪いだけだった。
「ますます君をーー殺したくなった」
しかしその苛立ちが僅かな隙を作る。粗くなった攻撃の隙間を彼は見逃さない。
悪魔イワン。何も強力になったのは力だけではない。身体能力も以前とは比べ物にならなかった。
「くっ」
油断。伸ばしたペーストを強く飛ばし過ぎた。手元へと戻し遅れた僅かなタイミング。そのほんの微かな時間で気付けばレミの顔もとにイワンの手の平は迫っていた。
イワンの力、その効果は距離と対象の感情の大小で決まる。ならばその距離がゼロならば。今の焦燥しているレミに、ゼロ距離で能力を使えばどうなるだろうか。
「ああああっ」
イワンの長く黒い爪に鷲掴みにされた、脳から伝わるのは鈍い頭を抉られるような感覚。しかしそれは先程とは比べ物にならない痛みだ。痛い。頭が軋む。イワンめ。そう言った苦しい、怒りといった思いがさらなる痛みを生む。何とか平常心を保たなければ。焦るレミにイワンは、
そして流しこもうではないか。
怒りを。
殺意を。
レミに、彼女に僕の愛をーー
「なっ……」
次にレミの脳を襲ったのは痛みではなかった。
彼の左手から伝わってきたのは感情。自分のものではない感情が自然に自分のものと化していく不思議な感覚。