「少し、黙って、くれ、遠藤、とやらの記憶よ」
頭を押さえてイワンは遠藤の記憶を隅へと追いやる。なるほど、一度理解してしまえば容易い。これはただの記憶、ただの遠藤来人という男の記憶であり彼自身ではない。自分はイワンであり他の何者でもないのだ。
「もう、彼女と話せる最後の機会なんだ」
闘いに敗れた事でイワンはまるで目が覚めたような感覚を味わっていた。あの日、地獄の果実を口にしてから続いていた妙な高揚感、まるで己の経験のように感じていた遠藤の記憶、そして自分が天使ではない何かになってしまったような錯覚、それが徐々に正常なものへと戻っていく。その姿は悪魔と呼ぶに相応しい醜い姿のまま。しかし、独り言の様に呟くイワンの声はどこかスッキリとしたもので、まるで天使だった頃のような雰囲気があった。
「ふう、オレは死ぬんだな」
天使は人間の身体と違い真っ二つにされたところですぐに死ぬ事はない。だがこの状態で放っておけば先が長くないのは確かだ。そして、そんな彼に近づく影が一つあった。
「ああ、お前はもうここで終わりだ」
「レミ」
彼女はこちらに歩み寄りイワンの顔を覗き見るように身を屈める。彼ーー遠藤の記憶から解放されたからだろうか、自分を倒したレミに対してイワンは別に恨みや怒りといった感情はなかった。むしろ抱く気持ちは感謝。イワンは地獄の果実へと手を出して天使のルールを破った、それに下界への個人的な干渉、さらにはレミ、ミカ、少年を殺そうとさえもした。そして……少女ーー蛍を殺めてしまった、迷惑をかけているのは自覚していたが、それでもイワンは溢れ出す感情を止める事が出来なかったのだ、だからイワンは暴走していた意識が落ち着いた事に安堵していた。それに遠藤来人の記憶からくる殺意のようなものから解放された事にも。
「すまないレミ、迷惑をかけたな」
全ては自分の心の弱さが原因だった。整った容姿に優秀な知能を持っていたイワン。特に人生で苦労した事もなかったが、それと同じように彼は特に楽しい事もなかったのだ。ただ繰り返されるだけの毎日。そんな日々に嫌気がさしてーー彼は地獄の果実へと手をだした。そしてその結果、イワンはこんな騒動を起こしてしまったのだ。だから自分を止めてくれた事にイワンは感謝していた。そしてレミを失望させてしまったであろう事に彼は申し訳ない気持ちを感じていた。
「そうか……イワン」
「どう、した?」
ジッとこちらを見下ろすレミ。その目の奥に抱くのは怒り、失望、哀れみ、はたしてどんな感情なのだろうか、既に力を使う余力もないイワンに答えは解らない。彼は少し緊張しながら次の言葉を待つ。すると、
「今までご苦労だった」
「……こちらこそ、君といれてよかったよ」
「そうか」
彼女の口から出たのは短い別れの言葉だった。おそらく言いたい事は沢山あるはずだがもうイワンが長くない事はレミも分かっているのだろう。だからどんな言葉よりもその言葉を選んだのだろう。責めること、怒ること、そのどれよりも今まで自分を慕ってくれた部下の労をねぎらう言葉を述べるのだ。そしてふとイワンは思う、レミの纏う空気が同じ部署にいた頃に比べて少し違う事に。
「君はいい顔をするようになった、こちらに来て何かあったようだな」
「そうか? 自分ではよくわからんな」
「ああ。その凛とした表情は変わらないが、雰囲気が以前と違うように思える……あの少年の影響か」
レミの雰囲気が天界にいた頃に比べて変わったのはおそらく彼が関係しているのだろう。少年ーー増田輝希。彼にもイワンは取り返しのつかない事をしてしまった。結果、少年を助けたとはいえ、少年の愛する人の命を奪ったのだ。それに蛍を玩具にするような事さえも行ってしまった。イワンは視線だけを輝希へと送り、
「少年、済まなかった。彼女を、蛍を弄ぶような真似をしてしまって」
「うん……」
イワンは蛍の命を奪った相手だ。こんな短い言葉を述べられたところで、いや、どんな言葉 を言われたところで許す事はできなかった。しかし今の彼には先程までの狂気、殺意が感じられなく、とても生真面目な男に見えた。だから不思議と責めるような気にもなれない。でも、それは別にこの悪魔を許したからではない。ただコイツを恨んだところで彼女は帰ってくる訳ではないし、それに、
僕がイワンを恨んで生きて行く事を、きっと蛍も望んでなどでいないだろうから。
だから輝希は、うん、とただ短く頷く事しかしなかった。