それは彼の記憶に曖昧に残る3月6日の出来事。
輝希はその日ある少女と遊ぶ(デートと呼んでもいいのかも知れない)約束をしていた。午後0時50分待ち合わせより10分早く待ち合わせの駅前へと着いた少女、輝希はその20分前に来て彼女の到着を待っていた。待ち合わせ場所に現れた彼女は輝希を見つけ大きくて手を振る。
その元気一杯さはいつも通りだが目に映る彼女はいつもと違って見えた。おそらくこの日のために買ったのだろうか。普段は線のはっきりしているスッキリとした衣装を好む彼女にしては珍しく、ふんわりとしたラインの淡い黄色のボーダーニット、それとあまり見た事のないスカート姿(サーキュラースカートと言われるものだろう)、バックだって持ち歩かない方が多いのに今日はいつものそれより大きく可愛らしい物を持ち合わせている、と実に今時の女子高生の私服らしい華やかな格好をしていた。
別に初めて二人きりで遊ぶというわけでもなかったが、なんというかその日の彼女は特にキラキラしていたのだ。
幼い頃からずっと一緒だったので特に意識はしていなかったが、彼女の親しみのもてる年相応の表情や仕草、それとモデルやタレントとは違う自然なプロポーションや雰囲気がその日は一層輝いてみえて、なんだか輝希は胸の高鳴りを抑えれなかった。ただ隣にいるだけなのに普段感じる落ち着きや安心とは真逆の、ドキドキという音が聞こえてきそうな興奮のような緊張を感じてしまう。そしてそれは彼女も同じだったのだろう。いつのも少年の様なからかう感じのアハハとした笑い声とは違う、少し頬を赤らめてフフッといった様子の大人な女性の笑みを浮かべるのだ。それを見ると輝希は彼女を直視出来ないぐらいに緊張してしまった。
だからなのだろう。そう、その日二人は特別浮かれていた。だから気付けなかったのだ。迫り来る音、赤のままの歩行者用信号、それらに気付かずに歩みを進める自分達に。
唐突になった大音量のクラクション。それが自分達二人に向けてのものだと気付いた時には全てが手遅れだった。振り向いた輝希の正面には黒の普通車。引き攣った顔で必死にブレーキを押し込む運転手とは反対に輝希はいたって冷静だった。事態が飲み込めていないという理由もあるだろうが、彼はなんとなくもうわかってしまったのだ。この距離では避ける事は出来ない。後数秒もしないままに衝突する。この速度では助からないかも、とまるで他人事のように。でも同時に輝希は思う。
彼女はここで死ぬべき人ではないのだ。
彼女ーー蛍にはもっと色々な事をして欲しい。楽しい事も辛い事も沢山経験して欲しい。そして沢山の出会いをして欲しいのだ。そうして、その明るさでこの先も沢山の人を照らして元気に欲しいんだ、僕がそうだったように。そう心の底から輝希は思えた。
そんな彼女を思う気持ちがけが輝希の身体を動かす。幸い迫り来る車に近いのは輝希の方。それは些細な差かも知れないが彼は信じた。彼女は助かる、彼女は幸せになれる。……僕がいなくても。そして、輝希は腕にありったけの力を込めて迫り来る死から彼女を遠ざけるのだ。蛍の幸せをだけを願って。
瞬間、鈍くも激しい痛みが彼を襲い、辺りに衝突音が響いた。
蛍はどうなったのだろう。輝希は辺りを確認しようとするが身体は動いてくれない。耳も上手く機能してくれず、一体どちらが上なのか下なのかも解らなくなった感覚とぼやけだす視界。徐々に遠のく意識の中で誰かの弱々しい声が聞こえた気がしたが今の彼にそれは届かない。そうして輝希の心は暗闇の中へと落ちていった。