「とっ」
椅子にでも躓いたのだろうか。ぐらっとゆっくり傾く彼女の身体、蛍はその場に倒れかけそうになる。
「あぶないっ」
輝希はすかさず声を上げたがテーブルの向こうにいる蛍には遠い。とても間に合いそうにない。ミカも気付いたようだが、絶賛食事中だった彼女では蛍に近いとは言え助けるのは無理だろう。
「大丈夫か蛍」
彼女の身体を抱えたのはレミ。俊敏な動きで蛍を下からしっかりと支える。食器等を持つ前だったので幸い破損物はなく、蛍自身もレミのおかげで怪我はないようだ。輝希はホッと胸を撫で下ろす。しかし、ただ躓いただけなのだろうか。気のせいか蛍の顔色は先程に比べて悪く見える。
「ごめん、レミちゃん大丈夫?」
「いや、私は大丈夫だ……だがこれは」
別に痛みなどはなかった、だがレミは気難しい顔をしていた。そう、レミは蛍に触れた時に奇妙な感覚を得ていた。それはまるで人間とは違う力の存在、そしてどこか輝希に感じたものと似ていて、
「イワン?」
そうレミは口にした。イワン、レミの部下だった青年の天使。そう、なぜか蛍の身体からはイワンの気配、そしてその力が強く感じられたのだ。そして不可思議だったのはそれだけではない。彼女の身体は温もりが一切感じられなかったのだ。とはいえ天使達には体温がない。だから別にその事に不自然さは感じないのだが、だが輝希や他の人間に触れた時とは全く違った。つまり人間には当然あるものが彼女には存在しなかったのだ。
「っ! どうしたの? レミちゃん」
イワン。その言葉を聞いた時、蛍は明らかに強い反応を示した。そして誤摩化すように満面の笑みを浮かべる。彼女の態度はどう考えても不自然だった。
「蛍、その身体をよく見せてくれるか?」
これは今ここで確かめておくべきだな。レミはそう考えてもう一度彼女へと手を伸ばす。すると、
「触るなっ!!」
その大声と同時にレミの手を弾く高い音がリビングに響き渡る。事態を見守っていたミカと輝希。特に輝希は驚いた様子で心配そうに目を見開いてこちらを見ていた。
「蛍?」
一体何が? 不安そうに言葉を口にする輝希。蛍はその声にハッとした様子で彼を振り向く。そこでどうやら自分のした事、周りの空気に気付いたようだった。
「ごめん、私もう帰るね」
しばらくの沈黙の後、彼女は申し訳なさそうにそう口にした。荷物は料理の材料だけだったらしく彼女はそのまま扉の方へと向かって行く。
「待って蛍」
しかしその言葉は虚しく宙を舞う。彼の制止も聞かず蛍はリビングから出て行ってしまう。輝希はギリッと未だ床に座るレミを睨みつけて、
「何を言ったんだ!? 蛍を傷つけるような事を言ったのか!?」
今までレミにここまで大声をあげる事があっただろうか。いや今まで誰かにここまで感情的になる事があったのだろうか。それほどまでに、蛍を傷つけたかもしれないレミに対して彼は頭にきていた。だが状況だけみれば彼女も被害者かも知れない。しかし今の輝希にはそんな考えは回らない。
「すまない、少し確かめたい事があって」
突然の蛍の変貌、それに輝希の怒声、それらに少々動揺した様子のレミ。だが彼女はそれらには触れず素直に詫びを述べる。その態度をみればレミが一方的に悪くないのは一目瞭然だった。
「ごめん、大声出して、話は後で聞くよ」
そう言い急いで扉も閉めずに部屋を後にする輝希。廊下を駆け抜けてスニーカーに履き替えて玄関を後にする。慌てて外に出ると彼女はまだすぐそこにた。夜の帳の中、何故か立ち尽くしている彼女の背中に向けて、
「蛍、ごめん。レミが迷惑をかけたんなら僕が謝る。本当にごめん」
そう言って輝希は頭を下げた。その声に反応して彼女がこちらを向いたが、お辞儀をしている輝希は分からない。蛍は彼が追ってきた事に少し驚いていたが、すぐに落ち着いた様子で、
「ううん、あの子は何もしてないよ。すごくいい子だよ」
「だったら、なんであんな事を?」
そう、さっきの彼女のは明らかに様子がおかしい。レミに原因がないなら一体何が? そう思い輝希は問い掛けたのだが、
「ううん、本当はそんな事思ってないや……はあ、私嫌な子だ。でも仕方ないか」
しかしその問いに彼女は答えなかった。聞こえてはいたはずだ。でも彼女はまるで独り言のようにそう呟くのだ。そして、
「蛍? 何を言ってーー」
訝しむ輝希に向けて彼女は言うのだ。いつもの屈託のない、でもどこか陰りのある笑顔で、
「だって私も、もっと輝希のそばにいたいからさ」